空っぽな私

おはようごさいます。ギンです。

久しぶりのブログ更新でござあ。久しぶりすぎて文章の書き方忘れちゃったマーキュリー。

ので前置きとかは飛ばしちゃって。

最近何をしても心の底からの感動が無いなって思ってて、

もちろん素晴らしいものを見た時込み上げるものはもちろんあるのだけど、昔みたいに感情が爆発する感動を感じないなーと。

でもたぶんこれは世界が変わったんではなくて、何故なら昔の自分と同じような感性を持っていた人達は同じものでとても感動していたから。

自分が変わっちゃったんだと思う。

自分が昔心の底から感動していたのって

作品に自分を重ねていた時だったなと

思い返すと思って

報われない努力だったり、上手く世界に馴染めなかったり、まわりからの目線や声に心を痛めたり。

そんな自分と同じような境遇のキャラクターや人や歌詞に自分を重ねて感情を揺さぶられていた。

それが今じゃどうしたら自分が傷つくのかを知りすぎてしまって、まわりにそれを発信するのも躊躇いがなくなって

傷つく道は進まない、成りたい自分とか今より良い生活とか望んで頑張って報われなかった時にすごく気分が落ちるからそもそも望まない、頑張らない。

このままじゃ未来が危ないとわかっているけど、未来を考えるのは怖いから今の楽さを満喫している。

そんな生活を数年くらい続けてきた結果

何が起きてもまあいいかと思ってしまう、譲れないものとかひとつも無い空っぽの人間になってしまった。

感動は一応する。瞬間的なエモい演出はよく出来ていて、そこに大きな想いが無くともそこそこ感動出来るようになっている。

もちろんそういう軽々しいもの(失礼かもしれんけど)じゃないメッセージ性の高いものに感動する時も

自分に重ねるというより似たキャラクター、人に重ねて感動している気がする。

もしかしたらそういう空っぽの人間って結構いるのかもしれない

そういう人のために推しという存在を作るのかもしれないと少し思った。

変わり映えしない人生より、行動をしている変わり映えがめちゃくちゃある人間に人生の主役を任せて自分はそれを見る観測者または支援する側にまわるなど。

たしかにそれもいいのかもなってちょっと思った。

でも心にモヤモヤがあって、自分の性質は自己中だから。中二病を拗らせているから。

自分が中心でありたいし、自分が唯一無二でありたいし、人生の主役はもちろん自分でありたい。特別でありたい。と。

誰か応援したい推しがいても自分の性質上、結局は主役には出来ないんだなって。

そんな性質はありつつもその自分をどうにもしていない自分。

この事に本当に最近まで気付けずにいたのだけど。

というより傷つくかもしれないから目を背けていただけなのかもしれないのだけど

今週の水星の魔女「空っぽな私たち」を見て、空っぽになったスレッタを見て久しぶりにキャラクターの感情と自分の感情が重なってめちゃくちゃ泣いてしまって、

やっと今の状況に気付いた。これがモヤモヤの正体。

たぶん今の自分は、昔恐れていた死んでるように生きてる人間。

傷つくのを恐れて何もしなければそれは傷つきはしないけど、何も楽しくないな。

心の底から感動するためには中身のある人生を過ごさなくちゃな

と思った今日このごろでした。

そうやって気付いただけでも一歩前進!と思って満足しちゃってなかなか行動を起こさないのが悪い癖なのですがw

まあとりあえず今日はこんなところで。

よいしょー、毎度あり。